星が森に帰ってしまった

<p>今週のお題「わたしの好きな歌」</p>

なんか久々に文字を書きたい気分です。

ブログというものをひらいてみた。

しかも初めてお題というものをやってみる。

この歳になっても初めてのことってたくさんあるわけで。この先、いくつもの初めてを経験して、人生とは、初めてをどんどん減らしていく道程であって。

初めて失恋したあのとき。

初めて恋が実り、初めて愛する人を傷付けて、初めて愛する人を失った。

そんな私を癒してくれた曲が、大好きな歌。

ほんとありきたりかもしれないけど

めちゃくちゃ聴いてたのは、

プリプリの「M」

何度もカラオケ行って 歌っては大号泣してた。 (友達もよく付き合ってくれたなぁ。) "もう叶わない想いなら あなたを忘れる勇気だけ、欲しいよ" そんなことも言えないくらい、忘れるなんて考えられなかったけど、その歌詞をなん度も繰り返すたびにそっちの方がかっこいい気になれた。 そしてそのあとの "今でも 覚えている" の高音が気持ちよすぎてね。 あぁ、やっぱ忘れたくないって気持ちが溢れてきて大号泣。笑 "あなたの言葉 肩の向こうに見えた景色さえも" なんかほんとに最高な恋だったのに あんなに忘れたくなかったのに 今じゃほとんど忘れてる。 あの時の最高にエモかった気持ち。 忘れちゃったのがすごい切ない。 忘れちゃうものだなあ。 ほんとにこんな風に、自然に、小さなことが 掌からこぼれ落ちるように 星が森へ帰るように。 また、あんな恋、したいなぁ。

「女子校力」

あの頃は、毎日が、本当に、楽しかったなと、心から思える時間をもらえただけで、女子校にすごく感謝をしていて。

あの時の自分が、本当に大好きだと思える。

やっぱりね。人は、誰かに認められることより、人目も気にせず、叫んで、笑って、自分という人間を曝け出して、それでも笑ってくれる人がいる方が幸せなんだよ。その方が、自分のこと大好きになれる。

でもそれって、側から見たら「世間知らず」と言われるわけで。

あの頃は、周りに、同質の人が多いなんて、気付いてなかった。変な奴ばっかりで、みんな変わってて、みんな面白くて、みんな違うと思ってた。でも、同じ性、同じ偏差値、同じ年齢、同じ校風に惹かれて集まった人たち。すっごく温室だったんだなぁって気付けたのは、共学の大学に入ってから2年以上経ってからかなぁ。

 

今では、もうわかってる。

自分が、共学の世界では、ちょっと変わってて、みんながイイって思うものに心からイイって思えなくて、でも、イイ!って言うことも時には必要だってことも。

でも、イイって言うのってダサいわ〜と心の中では思ってるすごい自尊心があるってこと。

それって、世間から見たら、めんどくさいプライドだなぁと思われるのもわかっていても、

「それでもこれが私だ」と思うところが女子校出身だなぁぁと、自分を揶揄しながら、自分のこと大好きなんだよねえ。

 

こんな私が、大好きです。笑

私は女だからご飯をよそらせされるわけではない。

ツイッターでは、ジェンダー的な問題がよくバズる。

最近話題のお櫃問題。

元ツイートがこちら。

「夫と一泊二日旅行に来てるんですけど、旅館で毎回毎回、上座に座ろうが下座に座ろうが妻の方に置かれるおひつとしゃもじが辛くてね😂
私はもういいんだけど、外国人観光客にもまさか同じことしてるんじゃねえだろうなって心配になる。お願いだからやめてね、本当…。心配だよ。」

【引用元】https://twitter.com/otakukonyakusya/status/921878236899950593

 

このツイートに対して、

いろんな人が好き勝手言ってて、まぁ私も好き勝手言いたい人のうちの1人。

 

私はこの問題自体を問題にしても何も意味がないと思ってる。

この旅館はダメな旅館だ!とか、お櫃を真ん中に置こう!とか、そういうの。

 

 お櫃を妻の側に置く旅館が求められる社会、置かせてしまう女の社会的な立場、そういう社会の価値観自体が問題であって。

 

そういう価値観を変えて行く一歩としては、お櫃を置かれて困ったって発言することや、真ん中に置こうって人が増えたりすることは意味をなすと思うんだけど。

 

どうしてもTwitterの議論では、

「そんなことで気にするな」とか「女がよそるのが当たり前と思う男が悪い」とか「嫌ならその場で言え、女は性格が悪い」とか「女性差別だというなら、男も差別されている」とか

もうそんな攻撃であふれていて、これじゃあ、男と女は分かり合えないよなぁ〜と悲しく思うのです。

 

男も女も何も考えずにご飯をよそっていたひと、嫌々やらされていた人、やらせていた人、みんなが自分の問題だと考えて、価値観を変える方向に動けたらいいのに。

 

女性差別があるかと言ったら、あるし。逆に、男性差別があるかと言ったら、それもあるだろう。

それがあるのが当たり前の社会になっていて
その中で、それをうまく利用して生きようとするのは、したたかで生きやすいのかもしれない。

 

だからこそ、価値観を変えるのは難しい。今の流れに逆らうものだから。

 

でも流されているだけなのに、人は、傷ついている。けれど、気付かないふりをしてる。男も女も。

 

自分の痛みにちゃんと向き合って、声を上げることは、難しいことなんだ。

 

私としての個人の見解は、

私は女だから、生きていてやっぱり女性差別は感じることもある。

でもね。
女性だからといって、女性を蔑視してないとは限らないし、男性だからといって、全てにおいて女性を蔑視しているとは限らないんだよね。

 

だから、男性から差別されているな、という感覚は薄い。

男性より女性が下に見られる社会そのものに差別されているなと感じる。

 

しかも、原因は女性の方が大きいとすらかんじる。

女が下だった歴史を持つ国に生まれてしまったのはもう誰のせいでもない。

でも今は、向き合わないといけない時代。

自分が幸せに生きるために、一人一人が責任を持たなければいけない。

だけど、女は、今までに社会から求められてきた女を使って生きて行く。自分より、社会としての女を大事にしてしまう。そうしないと生きづらいから。

 

女を使って生きている女が、一番女を蔑んでいて、自分を下にしていて、女を悲しくさせているんだ。それは、男を悦ばせてしまう。男に許してしまう。

女を下に見させることで、自己承認を得ようとしてしまい、自分を安売りしてしまうことこそ、一番の女性差別だと思う。

 

女は、母親になって、娘に我慢をさせて生きさせる。

自分だって、そうしてきたから。そうすることが正しいと思われる社会だから。

娘のことを思ったら当たり前なんだよね。

生きやすい生き方を教えるのは。

母は、息子に、女にご飯をよそらせるのを許してしまう。

「男の子だから仕方ないね」

許してしまう。

 

こうして、社会通念に縛られてしまう。

 

生きづらい世の中なんだなぁ、と思う。


男も女も。

 

 女だって、したくてしてるわけじゃないけど、

でも女が選んで、差別させてるんだよ。と

厳しいけど私はそう思うようにしている。

だからこそ、私は、絶対に、「ご飯をよそってくれる女性」という評価はもらわない。

私は、女だから、ご飯をよそらされるわけではない。

私は、一緒にご飯を食べる人のために、美味しく食べるために、ご飯をよそっている。

他人と付き合うということ。

お互いを知るということは

寂しいものですね

 

お互いがどれだけ違う人間かということを

思い知らされる

 

お互いを理解しようとすることは

虚しいものですね

 

お互いがいかに相容れないかを

理解することと同じだ

 

それでも一緒にいたい2人は

自分の中の何かを捨てて

それでも何かを得て

 

それのどっちが正しいかなんて

わからなくて

 

そんなことを深夜に

取り留めもなく

 

寂しさを紛らわすかのような口淫を

彼は満足したふりをして

私もそれで満足したふりをする